『HHhH』その2:事実とフィクションの溝

先日の『HHhH』の続き。これを読んだあとに、いつまでも心に残っている文章があって、それは事実とフィクションとの関係性について書かれているんだけれども、ときどき思い出してはいろいろ考えこんでしまう。

実在の人物を描いた映画や本のすべてに共通するはなしです。

『HHhH』のなかで、映画『パットン』に関するドキュメンタリー番組をみた「僕」は、映画にたぶんにフィクションが入っていることが検証されたのをうけて、こう言います。

つまり、この映画は架空の人物についての映画だということになる。パットンの生涯に強い影響を受けているが、彼本人を描いているわけではない。ところが、この映画のタイトルはパットンなのだ。だからといって、誰も驚いたりしないどころか、シナリオをふくらませるために現実を改変したり、実際にはたいして重要でもない出来事やトラブルに満ちた行程からなる実人生の軌跡に一貫性を与えたりすることは当たり前だと思っている。こうして太古の昔から、口当たりのいいスープを作るために歴史的真実をごまかしてきた人たちがいるおかげで、僕の古い友人のような男は、ありとあらゆるフィクションに精通した結果、平然となされる偽造のプロセスにすっかり慣れ親しんでいるから、ただ無邪気に驚いて「あれ、創作じゃないの?」などと言うのだ。
 もちろん、創作ではない! そもそもナチズムに関して何かの創作をして、どんな意味があるのだ? (p. 57-58)


ここでの「僕」は、史実に忠実であろうとずっと格闘してきていて、「僕」の姿勢は歴史に対する真摯な対応のように感じたわけです。

同時にこれは、最近のわたしが前述の「実在の人物を主役にした映画」に接したときに感じる居心地の悪さを解説しているような文章でもあります。

映画『ソーシャル・ネットワーク』の感想でも書いたように、この作品あたりからか、実在の人物を主役にした映画に対してどう反応していいのかよくわからなくなることがあって、昔の歴史上の人物ならまだしも、亡くなって間もない人だとか、まだよゆうで存命している人の話がバンバン映画化されてくると、事実と虚構の混ざり方が複雑に曖昧になっていくような気がして、映画だからといって、どこまでフィクション盛っていいのか考えちゃうんですよね。最近だとたとえば、ダイアナやジョブスの映画とか、これから制作されるであろうランス・アームストロングの映画もどうなの。

映画の場合はフィクションにしかならないのはもちろん大前提なんですが、しかし。

(1) 彩りとしてフィクションがけっこう入ってはいるけど、重要なポイントの大部分は事実で、それを映画的っぽく演出、つまるところ、あくまで「事実を人々に伝えたいという点を重視したつくり」なのか、

あるいは

(2) ぜんぶまるっきりフィクションですべて監督の妄想、つまり映画としてのテーマは他にあるので事実であるかどうかはむしろどうでもいい

ということなのか、

他人の人生を消費する以上、そのあたりもっとはっきり提示してほしいと思うわたしなのでした。だから「この映画は事実にインスパイアされました」という断り書きがいちばんイラッときます。だからなんだ。いっそ、ぜんぶフィクションですよ、ときっぱり言い切ってほしい。

こんなことを考えちゃうのは、最近この手の映画は食傷気味(いつもの定量超え)なだけなのかもしれませんけどね。
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Commented by fontanka at 2014-03-28 00:50 x
ナチスの子孫のドキュメンタリーの一部をみました。
「ヒトラーチルドレン」
うーーーん
でした。
Commented by rivarisaia at 2014-03-31 00:00
例えば戦後に生まれて、当時のことはまるで知らないのに贖罪の人生っていうのもどうなのしかし…とも思いましたよ、あれ。
by rivarisaia | 2013-11-01 16:40 | | Trackback | Comments(2)

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