バベットの晩餐会(原作小説):芸術家の悲願の叫び
2024年 02月 20日
『バベットの晩餐会』イサク・ディーネセン著、桝田啓介訳、筑摩書房
『バベットの晩餐会』は大好きな映画で、以前にも感想を書いており、その後もときどき観返している。何度も映画を観ているうちに、食べ物や建築、部屋のインテリアや小物、人々の服装など、映像の細部に目がいくようになり、ストーリーの細部についてはあまり深く考えなってしまっていたので久々に原作を読み返したら、すっかり忘れていた新鮮な衝撃があった。
ということで、以下、ストーリーの細部に触れます。
小説ではさまざまな対比が描かれていて、プロテスタント(老姉妹たち)とカトリック(バベットやパパン)というのもそのひとつ。老姉妹がパリから来たバベットの得体のしれなさに微かに不安を覚えている描写がちらほらあり、「悪魔の業」である富籤の金を手にした結果、バベットが晩餐会の準備をするにいたって、その不安は頂点に達する。映画でも悪夢にうなされていたように、特に老姉妹の姉マチーヌ(将軍とのロマンスがあった方)は恐怖に駆られる。
肌の浅黒いがっしりした体躯の女と、赤毛で痩せぎすのやけに背の高い少年が、お気に入りの弟子をしたがえた魔女といった様子で、一日じゅうこの家をわがもの顔に使っていた。
赤毛の少年はバベットが「どこかで見つけてきた」港の船のコック見習いで、あのウミガメを家に運び込んだ少年でもある。老姉妹にしてみれば怪しげな人間がふたりに増え、自分の家の台所で謎めいた物を作っていると恐れ慄く。
しかしいざ晩餐会が始まってみると、そうした不安はすっかり消滅し、人々は神々しい光に包まれたすばらしいひとときを過ごすことになる。パリの有名レストランで提供していたという料理自体が単体でバベットの芸術なのではなく、その料理を食べた人が後になって何を食べたのかは思い出せないけれども最高に幸せな時間を堪能したという経験を生むことまでがバベットの芸術なのだった。
晩餐会の後、一万フランをすべて使ってしまったというバベットの告白に対し、姉のマチーヌは再び不安に襲われて、よからぬ想像をして動揺する。一方で同情を示した妹のフィリッパに対しては、バベットは逆に憐れみを抱くような態度で「自分は優れた芸術家なのだ」と宣言する。それでもやっぱり現実的なマチーヌが「貧乏になってしまう」と心配するのとは対照的に、かつてパパンから歌のレッスンを受けていた妹のフィリッパはバベットに共鳴するが、おそらく芸術家としてのバベットが抱えていた苦悩をこのとき本能的に理解したのだと思う。
バベットが芸術(料理)を提供し、彼女の芸術の良き理解者であったカフェ・アングレの顧客は貴族や富裕層であり、その人々がパリの市民を飢えさせ、抑圧してきた。バベットの夫や息子を殺したのもそうした富裕層だった。パリ・コミューンの支持派だったバベットは、みずからバリケードに立って仲間に銃を手渡したと話すが、それは自分の芸術を理解してサポートしてくれていた人々を間接的に自分の手で殺したということだ。それでもバベットが、労働者として闘う自分と、芸術家として揺るぎない誇りを持つ自分であることは両立する。芸術家には「世界じゅうに向けて出される長い悲願の叫びがある」とバベットは言う。それが芸術家の天命なのだと思う。
by rivarisaia
| 2024-02-20 13:08
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