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タグ:映画や本の雑記 ( 91 ) タグの人気記事

ハタと気づけばもう12月半ば。東京はついこの間までやたら暖かい日が続いていたので、そろそろ年末という気分にならないんですけど、年末です。

先週は「これを読まずして年を越せないで賞」公開トークが行われ、今年の候補作とメンションしておきたい作品についてあれこれ話せて楽しかったです(予定時間を大幅にオーバーしてしまって、すみません)。参加者のみなさま本当におつかれさまでした!

現時点での候補作の表紙写真をまとめて貼っておきます。

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(児童書で肝心の本が1冊抜けてた!!追記)
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最終審査はいつも通り年末に行う予定。今年は何が受賞するのか楽しみ!

おまけとして、イベントでメンションした作品。
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by rivarisaia | 2018-12-12 12:54 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(0)
10年近く前に怒って書いた昔のエントリに、いまもちょこちょこアクセスがあって、最近は別のことに怒っているのになんかフェアじゃないと考え、昨日はそれに追記をしました。迷ったけれども、加筆修正したものをここに新しくアップします。


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出版不況というのは20年以上前からずっと言われ続けていて、そこには再販制度とか返本率とか新刊出しすぎ問題とか複雑な事情があり、何が原因かは簡単に言えないけど、売れないと言われながらも毎月毎月いろいろな本が出版・販売されています。

ここ数年、さすがにこの状況はダメだと思うのが、嫌韓・嫌中本、差別本、トンデモ医学本、妄想の域に達してる歴史本などが、複数の大手出版社から出続けていること。この類の本は昔から存在していて、以前は無視すればいいと考えていたけど、どんどん悪化していていよいよ放置できなくなってきた。

世界の変化についていけずに、精神的にも成長できず、日本は後退しているみたい。そこにきて、ここ最近の『新潮45』の一件です。前回の批判もよそに、さすがにこれは酷い。

世の中には多様な意見がある、と言う人は、問題になった記事を読んでないか、そのほかのこの手の本の内容が及ぼす影響を想像できないのかも。これらの内容は同意できるか否かというレベルにはなく、他者を傷つけたり、命を脅かしたりするものでしかありません。「尊重されるべき異なる意見」には該当せず、価値もなく、当事者は傷つくだけだからわざわざ読む必要はありません。

こうしたモラルも根拠もない、ただ人を傷つけ社会に害をなすだけの文章に対価が支払われていて、流通にのせて市場に出し、ただでさえ返本率が高い中、面積に限りのある書店の棚を占有して、それで誰か死んでも版元はなんの責任を取ることもない。わたしは怒りしかわかない。

酷い本も出しているけど文芸書やノンフィクションでよい本も出してるからね、いい編集者もいるしねと許していた時期は、とうの以前に過ぎました。炎上商法にもうんざりだ。新潮社だけでなく、講談社も小学館も文藝春秋も、大手の経営陣はいったん自社の出版物を出す意義とその影響を考えてみてほしい。姿勢がはっきりわかるまでは、もうそうした出版社の本は買わない。わたしひとりが買わなくても困らないだろうし、それに自分の限りあるお小遣いは、良識のある出版社や小さいけど地道に良書を出版しているところにどんどん使っていきたいので。

"The pen worse than the sword" はロバート・バートンの言葉です。


by rivarisaia | 2018-09-20 15:58 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(6)
前回はワイルダー賞の名称が変わることについて書きました。そのつづき。




『大草原の小さな家』は、日本では一定の年齢層にはドラマ版のイメージが強く残っていそうで、本に関しては、年齢層を含めどのくらいの読者に読まれているのか、私は知りません。

書籍の「小さな家シリーズ」は、ローラの自伝だととらえる人もいるけれど、あくまで著者の経験をもとに書かれたフィクションです。

以前『Pioneer Girl』のエントリでふれましたが、もともと大人向けに書かれた原稿を子供向けに書き直すことになったという経緯があって、ローラ自身も「子ども向けのフィクション」として、想定する読者にあわせてエピソードを取捨選択して執筆しているし、さらに娘ローズが原稿に大幅に手を入れてます。

出版当時の社会にあわせて書かれているから、現代に適さない描写が出てくることもあるでしょう。今でも色褪せない魅力があるから読み継がれているけれども、「児童書」として適切か、というのは、このシリーズに限らずどんな本に対しても常にアップデートされていくものだと思います。

そういった視点でシリーズをざっと読み返し、個人的に気になった箇所にフセンを貼るとこんな感じ。

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緑のフセンは、私が先住民だったら嫌だなあと思う箇所。でも『シルバー・レイク』のビッグ・ジェリイなど、特定のキャラクターにまつわる描写やローラ個人の感情などは除外しています。

ピンクのフセンは黒人差別だと指摘された『大草原の小さな町』の5ページにわたって描写される文芸会でのミンストレルショウです。ローラの父さんが「骨を鳴らした黒人」を演じました。

ただ、今改めて黒人の登場があまりに少ないのも逆に気になってきました。自由州にはもっと人口がいたと思うけど、どうだろう。印象的なのは実在の人物だったタン先生くらい。深い意味はないのか、あえて除外したのか、それとも西部劇になぜか白人しかいないパターンと同じかな(このあたり詳しく研究してる人もいそう)

フセンの数は、人によってはもっと増えるかもしれないし、減るかもしれませんが、問題箇所が圧倒的に多いのは『大草原の小さな家』。インディアンテリトリーという舞台設定に加えて、インディアンが嫌いな母さん&スコット夫妻という人物がいるためです。

たとえば、スコットのおばさんのこんなセリフ。

「土地が知ってますさ。インディアンは、この土地に何ひとついいことをしてやしませんからね。ただあちこちうろつき歩いてるだけじゃないですか。野生の動物みたいに。条約がどうあろうと、土地はそれを耕す者たちのものですよ。それが常識っていうもので、正しいさばきでしょうが」
おばさんは、なぜ政府がインディアンと条約を結んだりしたのか、まるでわからないというのです。よいインディアンというのは死んだインディアンだというとおり、インディアンのことを考えただけで、血が凍ると、おばさんはいいました。

このあとミネソタの大虐殺の話題にチラっとふれます。「よいインディアンというのは死んだインディアン」という文章はほかにも複数回出てきます。

インディアンのことを「ただきらいなんですよ」と言う母さんは、「あの吠えたてる野蛮人がいたからですよ—— プンプン匂うスカンクの毛皮を腰にまいてるような連中が」(『シルバー・レイクの岸辺で』)といった具合にストレートに嫌悪感を表していますが、では偏見のなさそうな父さんはどうかというと、「インディアンのことはこわがることはない」と言いつつも、防御柵をつくるかどうかという話の時には

「こっちがこわがっていると思わせるようなことをするのは、ぜったいにしたくないからな」—『大草原の小さな家』

と言っています。

そもそも父さんは家族を連れて、白人移住者には開放していなかったインディアンテリトリーに勝手に移住しているわけです。父さんはときどき本音をもらします。

「白人がここらの土地全部を開拓して、住みつくことになるんだ。われわれはいちばん先にここにきて、自由にえらべたから、いちばんいい土地が手に入った」

「政府は、いつだって、移住者を開拓した土地から追い立てたりはしないよ。インディアンを立ちのかせるにちがいないんだ」
—『大草原の小さな家』


結果的にインディアンテリトリーから、インディアンたちは出て行くことになりますが、インガルス一家も政府によって追い出される(父さんは兵隊がくる前に出ていくことを決める)ことになります。

また『大草原の小さな町』では7月4日の町のようすで、国旗のそばに立つ男性が次のような演説をします。

「……婦女子を殺させ、焼き、また皮をはいだりさせた残虐なる赤い皮膚の野蛮人とも戦わなければならなかった。少数の、はだしのままのアメリカ人が、彼ら多勢と戦って、やっつけなければならなかった。そして、彼らはまさに、戦い、そしてやっつけたのであります」

子どもの頃の私は、インディアンはかわいそうと思いながらもあまり深くは考えていませんでした。それは、外国の昔の話で自分からは遠いこと、興味があったのが「開拓時代のライフスタイル」だったからです。

開拓民視点の話だから、白人がインディアンに対して抱いた恐怖心について想像するのは容易です。描かれていないのは、先住民側の感情です。

そして大人たちの態度だけでなく、インディアンは自由でうらやましいと無邪気に思い、インディアンの赤ちゃんがほしいと泣くローラの態度をみても、全体的になんだかインディアンは人間ではなくて、何か違う生き物のような印象すら受けます。

ただし、劇中でローラは両親に「ここはインディアンの国ではないのか」「なぜ母さんはインディアンを嫌うのか」とたびたび質問しています。あえて繰り返しこうしたセリフを挿入しているのは、どうしてだろう。私は、これは著者ワイルダーによる読者への問いかけなのかもしれないな、と思っています。


小さな家シリーズ
インガルス一家の話
『大きな森の小さな家』恩地三保子訳、福音館書店
『大草原の小さな家』恩地三保子訳、福音館書店
『プラム・クリークの土手で』恩地三保子訳、福音館書店
『シルバー・レイクの岸辺で』恩地三保子訳、福音館書店
『長い冬』鈴木哲子訳、岩波少年文庫
『大草原の小さな町』鈴木哲子訳、岩波少年文庫
『この楽しき日々』鈴木哲子訳、岩波少年文庫
『はじめの四年間』鈴木哲子訳、岩波少年文庫

ローラの夫となるアルマンゾの少年時代を描いたもの
『農場の少年』(出版された順ではこれが2冊目)恩地三保子訳、福音館書店


by rivarisaia | 2018-08-02 00:17 | | Trackback | Comments(0)
アメリカ図書館協会の「ローラ・インガルス・ワイルダー賞」の名称が今年から「児童文学遺産賞/Children's Literature Legacy Award」に変更された件で、趣旨を理解しておらず、勘違いして怒っている人が見受けられるので、ちょっと書いておこうと思います。

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うちにあるシリーズはもともと母のものですっかりボロボロ


まず、私はローラ・インガルス・ワイルダーの著作は大好きなのですが、アメリカ図書館協会の今回の判断を支持します。

日本の報道も誤解を招く要因なのでは?と疑問ですが、まず、言論統制だ、検閲だと思っている人、これはまったく勘違いしています。言論統制でもなければ、検閲でもありません。差別的な表現を削除しろとも言ってません。

そもそも基本的には「賞の名称を変える」だけであり、それは検閲を意味するのでもなければ、読むなとも言っていません。詳しいことはアメリカ図書館協会の声明を読んでほしいのですが、その点は強調されています。

「ローラ・インガルス・ワイルダーの著作は、これまでもそうだったように、これからも多くの読者にとってとても大切なものであり続けるでしょう」

と、最初にアメリカ図書館協会は述べています。それでも今回名称を変えることにしたのは、ワイルダーの本は1800年代のアメリカの開拓者としての経験や視点にもとづくもので、先住民や有色人種に対する描写が現代の多様な社会にはそぐわず、そこがアメリカ図書館協会の価値観と矛盾するからです。

賞の名前を変えるからといって、ワイルダーの本に対する個人的な関わりや気持ちも変えてほしいと読者に呼びかけてもいないのです。また、児童文学に多大なる貢献をした過去の受賞者や作品を否定するものでもありません。

読むのを禁止したり、本について話したり、子どもに読ませないようにしろとも言ってません。

ただ、大人は、ワイルダーの著作に関して批判的に読み解き、議論してほしい、と言っているのです。

批判的に読み解きというのは「think critically」ということですが、時代背景や歴史などを踏まえて多角的な視点で考える、ということです。

これの何が悪いのかな?

またひとつ注意したいのは、日本国内での読まれ方とアメリカ国内での読まれ方は違う、ということです。

日本人としては所詮これは他国の遠い昔の物語ですが、アメリカではもっと身近な話だし、学校の授業で使われることもあります。それこそ時代背景や歴史をふまえた読み方をしないと、傷つく子どもが出ることもあるのです。開拓時代のインディアンや黒人に関する描写が、現代の視点で見ると差別的なのは、確かに当時はそういう時代だったからなのですが、「当時は今と違った」という読み方をきちんとしてきたのかな?

実際に1998年には、スー族の8歳の少女がいるクラスで、教師が「よいインディアンは死んだインディアンだけ」というくだりがある箇所を読み聞かせたことが、大きな問題になっています(ワシントンポストの記事)。

名称が変わらざるをえなくなったのは、これまでの(アメリカにおける)読者(主に白人)が、クリティカルに読むという行為を怠ってきたツケでは?という気もします。

インディアンの描写が一番問題がある巻は2冊目の『大草原の小さな家』ですが、日本語版は巻末に日本女子大学の清水知久先生の「アメリカ・インディアンのこと」という解説がついています。

この解説では歴史的な背景に加えて、日本人も白人と同じような目でインディアンを考えてしまうこと、そして異なる文明を認めるというのはどういうことなのか、今読んでもハッとすることが書いてあるので、読んでいない人はぜひ読んでみてください。

私は英語版のPBも持っているんですけど、残念ながらこういった解説はついてないんですよね。最近の版はどうだろう。Study Guide的なものはついてるのかな? この話はまた続きます。


*続きも書きました(8/2/2018)



by rivarisaia | 2018-08-01 00:11 | | Trackback | Comments(2)
アメリカ大統領選の結果を見て、頭も痛いし胃も痛い……と思っていたら、どうやらそれはウイルス性の胃腸炎だったらしく、先週はゾンビのようになってました。ようやく人間に戻ってきたので、さっさと今年の東京国際映画祭のまとめ。

まず、今年は前代未聞のチケット問題がありました。こんなの今までちょっと経験したことない。仮にもこ「国際」映画祭なのに、ありえないくらいの大失態だったと思います。これまで映画祭のチケットは、外部の販売会社(ぴあやチケぼ)が発売していたのですが、今年から公式サイト経由で購入する形になり、販売初日は毎回アクセス集中でつながらなくなるのが常なので、大丈夫なのかなという不安はありました。全然大丈夫じゃなかった。

つながらないどころか、なんとかつながっても購入の途中で落ちるし、どのチケットが購入成功したのかさっぱりわからないし、挙句には決済だけされて席取れてなかったりするし。さらによくなかったのは、公式からのアナウンスが遅くて後手後手なところ。

決済だけされて席が取れていなかった人のための先行販売も行われたのですが、これまた発売日にはサイトがすっごく重くてなかなかつながらず、複数の友人と状況をやりとりした結果「チケットを購入するページへの入り口がとても狭い」のではないか、という結論に至りました。というのも、なんかの拍子に一度つながるとサクサク買えてたから。さらに本来はひとり4枚までだったのに、枚数エラーが出た人は、規定枚数以上買えていた。

販売初日の騒動の際に、問い合わせたら「サーバーは落ちてない」「買えてる人もいる」と言われたという話も見かけましたが、たぶんサーバーは落ちてなくて、サーバーにつながる道があまりに細すぎたのではなかろうか。

……なんか……システムとしてどうなの……。こんなの、海外の人とか買えないじゃん、チケット。

今年の状況をよくよく省みて検証し、来年はこのようなことのないようにしてください。(追記:公式サイトにお詫びと報告が出ていました。来年、ほんとがんばって)

長々と文句を書いたけれど、不満があるのは主に運営に対してであって、映画祭自体は毎年本当に楽しみにしています。コンペやワールドフォーカス、アジアの風などで上映される映画は年々よい作品が増えているように感じるし、それはプログラミング・ディレクターである矢田部さんや石坂さんが(おそらく少ない予算で)築いてきた成果だと思う。今年上映されて好評だった作品が、ひとつでも多く一般公開されますように!

そして来年も、どんな「動物枠」映画が来るのか、ひそかに楽しみにしていますよ!


by rivarisaia | 2016-11-23 00:16 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(0)
先日、WOWOWで『セデック・バレ』を放映していたそうで、私ももう1回観たいわ、体力のある時にでも、と思ったのですが、前に感想書いたときには触れなかったけど、すごく気になる1件があるので、書いておく。

映画の描写では、霧社事件の引き金となったのは、セデックの婚礼の場を通りかかった吉村巡査が、セデックの人からすすめられたお酒を断って小競り合いになった一件でした。吉村巡査はお酒を断る際に「ツバでつくった汚い酒はいらん!」と言うのね。

大体からして、この巡査は日頃からセデック族を見下している小役人で、大変にイヤな奴だったので、セデックの人たちも常日頃から積み重なってきたものがついに爆発してしまったわけです。巡査に対しては、他に断り方ってものがあるだろう!とイラッときますが、いずれにせよ起こるべくして起こった事件だったのでしょう。

それはさておきですね、このお酒です。

うむ。これはあれか。巡査が正しいなら、口で穀物を噛んでペッて出したブツを発酵させるタイプの酒なのでしょうか。

巡査の物言いはよろしくない、と考える私なのだが、そのタイプのお酒を飲むのはけっこうハードル高いかもしれない…ということがどうしても心にひっかかるのである。

ほかにもセデックの人はひとつのコップに同時に口をつけて一緒に飲むというやりかたがあって、吉村巡査のような人にはそんな飲み方にも到底耐えられないにちがいない。私も無理かもしれない。友だち同士で一口ちょうだーいっていうのはあるけど、あの飲み方はどうだろう。

しかしながら親しくなった印にともに飲み食いするというシチュエーションは往々にしてあり、ときに得体の知れないもの、生理的に受け付けないものを飲食せねばならない状況もありますよね。

自分ならどうするか、飲み食いできるか、あるいは失礼にあたらないように避けることは可能なのか(可能だとしたら、おそらく日頃の行い、普段からの親しさ度、というのがものを言うような気もする)。

エリン・ブロコヴィッチ』でも、エリンが弁護士である上司エドを初めてクライアントの自宅に連れて行った時、先方から「ケーキを焼いたからコーヒーをいかが」と言われる場面がある。「もう帰るので」と断ったエドに、エリンは「飲まなきゃダメよ!(Ed, Have a fucking cup of coffee!)」と真剣な顔つきで言うのだった。

断ろうとしたのは、弁護士はクライアント宅で飲み食いしない方針だったのかもしれないし、それよりも六価クロムに汚染されてるかもしれないという生理的な拒否感かもしれない。でも、エドはコーヒーを飲んでケーキを食べる。

ゴモラ』では、建前上にこやかに桃を受け取って、あとで「食えるかこんなもん」という勢いで道ばたに捨てていた。そしてそれがきっかけで、青年は自分がやっている仕事が間違ってることに気がつく。

口に入るものは、信頼関係の象徴のような面があって、できることなら断らないほうがいいんだろうな。断るにはかなり高度なスキルが要求されるような気がする。

松本仁一さんのエッセイ『アフリカを食べる』でも、マサイの人から牛の血をすすめられた話とか衛生的でない感じでチャイをふるまわれたときの話が出てきて、もちろん松本さんは全く平気なんだけど、これも私ならどうかなと悩ましいシチュエーション。

こういう話をすると、お前も平気で血の塊だとか虫とか食べてんじゃんかよ、と言われるのだが、牛の血だからどうとかじゃなくて、お腹をちょう壊しそうなのが心配なんです! 松本さんいわく、お腹壊しそうと思ってびくびくしながら飲むと必ず壊すから、そういうことを考えないでグイっといくといいそうですよ。そうなのかー。
by rivarisaia | 2014-03-27 23:49 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(2)
昨日、紅茶スパイの本を紹介しましたが、スコットランドの園芸家、偉大なるロバート・フォーチュン氏は当時、何冊か本を書いてまして、読もうと思えばネットで読めるので、英語ですが、2冊ほどリンクを貼っておきます(もっとあるけど、自分のメモも兼ねてまず2冊)。

『A journey to the tea countries of China; including Sung-Lo and the Bohea hills; with a short notice of the East India company's tea plantations in the Himalaya mountains』

タイトル長っ! お茶の国、中国の旅、といった感じですね。おまけで東インド会社の茶のプランテーションについてのお知らせもあるよ、と。

→LINK1 archive.org
→LINK2 Google Books

『Three Years' Wanderings in the Northern Provinces of China: Including a Visit to the Tea, Silk, and Cotton Countries; with an Account of the Agriculture and Horticulture of the Chinese, New Plants, Etc』
こちらは3年間、中国北部をさまよいましたの記。

→LINK1 archive.org
→LINK2 Google Books

どちらも数点ほどですがイラストが入ってます。誰が描いたのかよくわかんないけど…。フォーチュン氏の帳面とかどっかで保存して公開してないかなー。スケッチとか描いてると思うのよね。archive.orgのほうは、PDFやKindle版もダウンロードできますよ。

ちなみにフォーチュン氏はこんな方。
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変装……したのか。やっぱすごいな。

追記:肝心な本を忘れてた。『幕末日本探訪記』が講談社学術文庫から出ています! これについてはまた今度改めて。
by rivarisaia | 2014-01-30 23:59 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(2)
ゼロ・グラビティ』にて、サンドラ・ブロックがソユーズの降下モジュール内で葛藤するという、おそらく多くの人が涙ぐんでいたであろう場面で、わたしは「サンドラ、がんばれ!」と心の中で声援を送りつつも、目はコントロールパネルにクギづけ。

だってマイナスねじらしき物体が映ってるんですよ。
(追記:確認しました!ゼロ・グラビティのマイナスねじ

コントロールパネルは映画ではまるっきり重要じゃないので、スクリーンにちらっちらっと出てくるのみ。なのでわたしときたら「そうか、そうか、サンドラ…つらいよね…(で、コントロールパネルもっと大写しで一瞬静止プリーズ!)」と唱えてた。胸に沁み入る場面だというのに。

そこでさっそく、宇宙船のネジにマイナスが使われてるか会議が開かれた。

いやあ、NASAの画像アーカイブがすばらしすぎて、感涙。というか、深夜に写真拡大して真剣にネジ探してる我が家、あたまおかしいとおもう。

さて。

宇宙船といってもパーツはいろいろなので、今回の議題はコントロールパネルまわり。家人は「1本でもネジがゆるんだら一大事なのに、すぐなめるようなマイナスなんて使ってられっかよ」と言うのである。

確かに、アメリカのシャトルはほとんどプラスかポジドライブのようにみえる。アポロの写真もぼんやりしてるんだけどプラスかポジドライブっぽい(たとえばアポロ10号の写真はコチラ)。ただ、よくみるとシャトルの計器の一部にマイナスのようなネジがある。

たとえば「STS-127」の左上の計器を留めてるのがマイナスっぽい。どれか探せるかしら。ふっふっふ。

別角度の写真がコチラにあります。女性が手でつかんでる部分のナナメ左上にある「Line of Sight Rates」という計器を留めてるネジの一部がマイナスみたいなのだ。なんでここだけ?という気もするけど。

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しかもグレーに塗られているのも謎。

STS-116でも「Line of Sight Rates」だけがマイナスっぽい。いずれにせよそれ以外は、アポロ時代からプラスのようなポジドライブのようなネジが主流なのはわかった。

で、映画にも出てきたソユーズなんですが。

コチラとかコチラとかコチラをご確認くださいよ、奥さん!

部分拡大してみますよ。
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ほらー。
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ちょっとマイナスねじ、いっぱい使われてるよね!? コントロールパネル部分じゃなかったりもしますけど、マイナスが主流っぽくない? ロシアだから?

アポロ=ソユーズ・テスト・プロジェクトの写真でもマイナスだよ。

さらにコチラにソユーズの窓の写真があったんですけども。堂々たるマイナスねじ!

うむ。やはりサンドラさんが乗り込んだ降下モジュールのコントロールパネルもマイナスねじだったに違いない。これから観る人は、確認してみてください。違ったら教えてー。

さて、ここまでさんざん宇宙船のコントロールパネルのネジの話をしてましたが、家人いわく『2001年宇宙の旅』の宇宙船のコントロールパネルには、なんとネジがぜんぜん使われてない。

「そういうデザインで未来を表現したんだとおもうよ。ネジがなくてもモノが留まる世界。それが未来、という発想で」(by 家人)


マジですか。

ざっくり確認してみると本当にネジがない。2001年は無ネジ世界なのだった。

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まったくもってコントロールパネルはのっぺりしてるし。

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HALのメモリーセンターのパネルはリベット留めだし。

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HALの記憶を消去する動作がネジまわしに見えてきましたが、これはカギ。

こうなってくるとスター・ウォーズの世界はネジ社会なのか気になるところですが、それはまたいつか確認します。

【本日のオマケ】
映画みた人向けの宇宙船ガイド:
The Spaceships of 'Gravity': A Spacecraft Movie Guide for Astronauts

アポロ13で、船内にあるもので工作しないといけなかったフィルターの実物
その1その2
by rivarisaia | 2013-12-17 22:17 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(8)
先日の『HHhH』の続き。これを読んだあとに、いつまでも心に残っている文章があって、それは事実とフィクションとの関係性について書かれているんだけれども、ときどき思い出してはいろいろ考えこんでしまう。

実在の人物を描いた映画や本のすべてに共通するはなしです。

『HHhH』のなかで、映画『パットン』に関するドキュメンタリー番組をみた「僕」は、映画にたぶんにフィクションが入っていることが検証されたのをうけて、こう言います。

つまり、この映画は架空の人物についての映画だということになる。パットンの生涯に強い影響を受けているが、彼本人を描いているわけではない。ところが、この映画のタイトルはパットンなのだ。だからといって、誰も驚いたりしないどころか、シナリオをふくらませるために現実を改変したり、実際にはたいして重要でもない出来事やトラブルに満ちた行程からなる実人生の軌跡に一貫性を与えたりすることは当たり前だと思っている。こうして太古の昔から、口当たりのいいスープを作るために歴史的真実をごまかしてきた人たちがいるおかげで、僕の古い友人のような男は、ありとあらゆるフィクションに精通した結果、平然となされる偽造のプロセスにすっかり慣れ親しんでいるから、ただ無邪気に驚いて「あれ、創作じゃないの?」などと言うのだ。
 もちろん、創作ではない! そもそもナチズムに関して何かの創作をして、どんな意味があるのだ? (p. 57-58)


ここでの「僕」は、史実に忠実であろうとずっと格闘してきていて、「僕」の姿勢は歴史に対する真摯な対応のように感じたわけです。

同時にこれは、最近のわたしが前述の「実在の人物を主役にした映画」に接したときに感じる居心地の悪さを解説しているような文章でもあります。

映画『ソーシャル・ネットワーク』の感想でも書いたように、この作品あたりからか、実在の人物を主役にした映画に対してどう反応していいのかよくわからなくなることがあって、昔の歴史上の人物ならまだしも、亡くなって間もない人だとか、まだよゆうで存命している人の話がバンバン映画化されてくると、事実と虚構の混ざり方が複雑に曖昧になっていくような気がして、映画だからといって、どこまでフィクション盛っていいのか考えちゃうんですよね。最近だとたとえば、ダイアナやジョブスの映画とか、これから制作されるであろうランス・アームストロングの映画もどうなの。

映画の場合はフィクションにしかならないのはもちろん大前提なんですが、しかし。

(1) 彩りとしてフィクションがけっこう入ってはいるけど、重要なポイントの大部分は事実で、それを映画的っぽく演出、つまるところ、あくまで「事実を人々に伝えたいという点を重視したつくり」なのか、

あるいは

(2) ぜんぶまるっきりフィクションですべて監督の妄想、つまり映画としてのテーマは他にあるので事実であるかどうかはむしろどうでもいい

ということなのか、

他人の人生を消費する以上、そのあたりもっとはっきり提示してほしいと思うわたしなのでした。だから「この映画は事実にインスパイアされました」という断り書きがいちばんイラッときます。だからなんだ。いっそ、ぜんぶフィクションですよ、ときっぱり言い切ってほしい。

こんなことを考えちゃうのは、最近この手の映画は食傷気味(いつもの定量超え)なだけなのかもしれませんけどね。
by rivarisaia | 2013-11-01 16:40 | | Trackback | Comments(2)

Serenaの映画化

明日からわたし、東京国際映画祭です。なんか今年うまく日程があわなくて、観たい作品の半分くらいしか観られないんだけど、そんな年もあるわね。まーいいやー。

ところで!

Twitterにも書いたんですけど、こっちにも記録しておこう。わたしの大好きなアパラチア小説作家ロン・ラッシュの『Serena』に映画化の話があるらしいよ、というのは本の感想と一緒に書いた

で、そのときは、ダレン・アロノフスキー監督でセレーナはアンジェリーナ・ジョリーの名前が挙ってたんですけども、スザンネ・ビア監督で撮影しているらしく、セレーナはジェニファー・ローレンス、夫ジョージはブラッドリー・クーパーということで、スチルがあがってました。(↓PHOTO BY LARRY HORRICKS.)

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あら、けっこうよさそうじゃない? ジェニファー、いいかも。

映画が公開になったらもしかするとロン・ラッシュの小説も翻訳されるかしら。でも、できれば『Serena』よりも短編集がいいんだけどなー。『Burning Bright』を出せばいいのになー。ロン・ラッシュは今年の2月に出た短編集の評判もとてもよいので、いま現在、溜め本(Kindleに入っている積ん読本)状態なんですが早々に読んだら感想書きます。

最近、原作アリの映画ですでに原作読んでるものに関しては、観にいくかどうかすんごく迷うようになってしまったので、まだわかんないけど、とりあえずは楽しみにしてみます。よい出来映えだったらいいなー。
by rivarisaia | 2013-10-17 23:58 | 映画や本の雑記 | Trackback | Comments(0)

見たもの読んだものについての電子雑記帳


by 春巻まやや